Frank Sinatra フランク・シナトラ | |||||||||||||||
「私を野球に連れてって」(1949年) | |||||||||||||||
本名 | フランシス・アルバート・シナトラ | ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
別名 | ザ・ヴォイス | ||||||||||||||
生年月日 | 1915年12月12日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1998年5月14日(満82歳没) | ||||||||||||||
出生地 | アメリカ合衆国 ニュージャージー州 | ||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||
民族 | イタリア系アメリカ人 | ||||||||||||||
職業 | 俳優、歌手、エンターテイナー | ||||||||||||||
活動内容 | 映画、歌手 | ||||||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||||||
公式サイト | フランク・シナトラ オフィシャルファンクラブ | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『踊る大紐育』 『地上より永遠に』 『オーシャンと十一人の仲間』 | |||||||||||||||
| |||||||||||||||
フランク・シナトラ(Frank Sinatra, 1915年12月12日 - 1998年5月14日)は、アメリカのジャズ・ポピュラー歌手。本名、フランシス・アルバート・シナトラ(Francis Albert Sinatra)。エルヴィス・プレスリーやマイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀を代表する歌手の一人である。その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。また、映画俳優としても活躍した。
略歴[]
- 1915年12月12日:ニュージャージー州ホーボーケンに生まれる。
- 1935年:「ホーボーケン・フォー」の一員として歌手デビュー。
- 1939年:幼友達ナンシー(Nancy Barbato)と結婚。
- 1939年:ハリー・ジェイムス楽団の歌手としてメジャー・デビュー。
- 1940年:トミー・ドーシー楽団に移籍。
- 1941年:映画『ラスベガス・ナイト』に楽団歌手とプロフェッショナルして初出演。
- 1942年:ラジオ番組のレギュラーをきっかけにソロ・デビュー。
- 1951年:ナンシーと離婚。女優エヴァ・ガードナーと結婚。
- 1953年:映画『地上より永遠に』で第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞。
- 1957年:エヴァと離婚。
- 1961年:自分のレーベル、リプリーズを設立。
- 1966年:女優ミア・ファローと結婚。
- 1968年:ミアと離婚。
- 1971年:引退を発表。
- 1973年:アルバム『OL'BLUE EYES IS BACK』で歌手業に復帰。
- 1976年:ゼッポ・マルクス(マルクス兄弟の末っ子)の元妻、バーバラと結婚。
- 1985年:大統領自由勲章を受章。
- 1998年5月14日:多臓器不全により死去。
マフィアとの関係[]
タブー[]
シナトラは、その生涯にわたり、イタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。しかも、このことは「公然の秘密」であったにも関わらず、メディアのインタビューアーがマフィアとの関係を尋ねることはタブーとされていて、実際に尋ねてしまった場合はインタビューは即時中断し、そのインタビュアーは二度とシナトラに対するインタビューはできなかった。
なお、有名なニュースアンカーのウォルター・クロンカイトがインタビュー番組の収録の際、シナトラにマフィアとの関係を尋ねてしまった際には、怒ったシナトラが自らのマネージャーを呼びつけて中座し、インタビューは中止された。その後、シナトラとマネージャー、番組のプロデューサーの話し合いの後に再開し、シナトラより「興業主がマフィアであると知らず同席することはあった」との説明があったに止まった[1]。
「ゴッドファーザー」[]
シナトラが『地上より永遠に』の脇役に抜擢されるまでの有名なエピソードがある。つまり、カムバックを狙ったものの、女性スキャンダルが元で役につけなくなったシナトラが、「育ての親」であるマフィアの大物に泣きつき、最終的にマフィアの大物が裏で動いて役に抜擢されたというものである。 このエピソードは後に、イタリア系マフィアの血族を描いた映画、『ゴッドファーザー』で取り上げられ、世間に知られるようになる(映画上ではさすがに実名ではなく、「ジョニー・フォンテーン」と言う芸名になっている)。
その後、あるパーティーに、「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾとシナトラとが同席していて、知人がプーゾをシナトラに紹介しようとしたところ、「Fuck off(うせろ)!!」と怒鳴ったのは有名な話である。
FBI資料[]
シナトラは、前記のジアンカーナの他にも、カルロ・ガンビーノやラッキー・ルチアーノなどのイタリア系マフィアの歴代の大ボスとの交流があったことが、FBIの資料で公になっており、その資料は合計で2,403ページにも及ぶことから、いかに深く広いつき合いがあったかわかる。
最初の結婚[]
1940年代、彼はジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボスウィリー・モレッティと友人となった。シナトラの最初の妻だったナンシー・バルバートはモレッティと縁のある人物のいとこであった。
ケネディ大統領暗殺事件[]
娘のナンシーによれば、ケネディが1960年の大統領選挙に立候補する際、ケネディの父親で、密造酒商売を通じてマフィアと繋がりが深く、禁酒法時代に密造酒製造・販売で財を成してのし上がった過去があるジョセフ・P・ケネディが、シナトラの歌手デビュー当時から密接なつき合いがあるイタリア系マフィアの大ボスで、ショービジネス界を裏で握っているジアンカーナに選挙運動に協力するように頼んでほしい、とシナトラに頼んだと証言している。
シナトラはジアンカーナに協力を要請したほか、その後元ガールフレンドでジアンカーナの情婦でもあったジュディス・キャンベルを大統領になる前のケネディ大統領に紹介し、キャンベルとケネディは短期間の間不倫関係になった。なおその後キャンベルはケネディをジアンカーナに紹介した。実際にその後ジアンカーナはケネディの大統領選挙の支援(選挙不正)を行った。
しかしケネディは大統領当選後、ケネディ家とジアンカーナをはじめとするマフィアとの関係を怪しんだジョン・エドガー・フーヴァーFBI長官(当時)に目をつけられたため、マフィアの協力で大統領に当選したことが表ざたになることを恐れた弟で司法長官となったロバートが、大統領就任後にジアンカーナをはじめとするマフィアとの繋がりがあるシナトラを露骨に避けた上、この様な事実のもみ消しのために「マフィアを徹底的に取り締まる」と発表した。
このような無礼な仕打ちに怒ったジアンカーナとシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、ジアンカーナは「ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人」と言われることになる。 さらにシナトラは、1968年の大統領選挙でロバートのライバルとなることが予想された共和党のリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになった。この事が「ケネディ大統領暗殺の際にシナトラが何らかの役割を果たしたのではないか」、「ケネディ兄弟の暗殺はこの裏切りに対する報復であっただろう」と言われる根拠となっている。
ちなみにシナトラはケネディ大統領暗殺事件の直後、自分が出た映画「3人の狙撃者」のフィルムを回収して回った。「そこでのシナトラの役は大統領狙撃未遂の主犯だったからである」と知ったかぶりというか予断によってコメントする人が多い、。この映画は「影なき狙撃者」という別の映画である。この映画で、大統領ではなく副大統領を暗殺しようするするのはローレンス・ハーヴィーで、シナトラはそれを阻止する役。この映画、今ではDVDで簡単に手に入る。
出典[]
- ↑ 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ 1999年
日本語文献[]
- 『シナトラ 20世紀のエンターテイナー』 アーノルド・ショー、尾坂力訳(早川書房、1978年)、公式伝記
- 『ヒズ・ウェイ』 キティ・ケリー、柴田京子訳(文藝春秋、1989年)、タブーにも触れた伝記
- 『フランク・シナトラ 栄光の日々』 フレッド・デラー、河村美紀訳(シンコー・ミュージック、1997年)
- 『ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生』 ピート・ハミル、馬場啓一訳(日之出出版、1999年)、親密だった著者による評伝的エッセー。
- 『シナトラ』 三具保夫(駒草出版、2007年)
関連項目[]
外部リンク[]
- フランク・シナトラ オフィシャルファンクラブ Sinatra Society of Japan
- フランク・シナトラ at the Internet Movie Database (英語)
- ワーナーミュージック・ジャパン - フランク・シナトラ
|